久々に書きます。。「粋」について。
ほぼ誰も読んでいないであろうこのブログ、なので割と気軽に書ける部分もあり、
かといって不真面目なわけでもなく、割と真面目に書いてますが、
そんなこんなで今回は「粋」について考えたいと思っております。
とりあえずwikiでちょっと調べてみようw
(以下引用、出典いき - Wikipedia)----------------------------
いきまたは意気とは、江戸における美意識(美的観念)のひとつであった。江戸時代後期に、江戸深川の芸者(辰巳芸者)についていったのがはじまりとされる。身なりや振る舞いが洗練されていて、かっこうよいと感じられること。また、人情に通じていること、遊び方を知っていることなどの意味も含む。カタカナでイキと記すこともある[1]。
「いき」は、単純美への志向であり、「庶民の生活」から生まれてきた美意識である。また、「いき」は親しみやすく明快で、意味は拡大されているが、現在の日常生活でも広く使われる言葉である。
(以上)------------------------------------------------------------------------------
ふむふむ、「粋」とは江戸時代そして江戸発祥の概念なのですね。。
それも庶民の生活から生まれた「美意識」なのですね。
と言われても、若干しっくりとこない部分があるので、
具体例を挙げて考察していきたいと思います。
ー 粋は「やせ我慢」と「反骨精神」から成る「意気地(いくじ)」に集約される ー
「江戸時代に食べ物は江戸には自慢できるようなものはあまりなく、
せいぜい江戸前の海で獲れた魚くらいでした。
だから江戸時代後期に、それまでの押し鮨と違う、握り鮨が登場すると大ブレイク。
握り鮨は、握って出されたらすかさず口に入れるのが江戸前の食べ方。
当時は屋台でしたから、何個かつまんでさっと出るのが「粋」とされたのです。
江戸っ子が大好きな蕎麦にしても、辛いつゆにちょっとつけて、するするっとたぐる。
たくさんつゆをつけると、ずるずるっになる。これは野暮。
質素な食べ物だからこそ、スタイルが肝心なわけ」ということだそうです。
*上記は某ブログ引用
つまり、「粋」とは質素な中でもそれを感じさせない「美しさ」を貫く、
ある種の「気概、生き方、心意気」のようなものだと思います。
なので、ちょっと難しい部分ではありますが、どちらかというと受け手の概念ではなく、
「送り手」のものだということになります。
受け手としては送り手のそのようなメッセージを汲み取り、
感動し、尊敬するのが、「粋」のたしなみというものなのでしょう。。
インターネットが普及し、情報が溢れる現代。
江戸時代の人からすると、そんな今はちょっと野暮な世の中かもしれませんね。
全てがあからさまになることは決していいことばかりではなく、平成時代の我々は
知らず知らずのうちに大切な何かを忘れてしまっているかもしれません。
もう一度、「粋」というものについて見つめ直してみてはいかがでしょうか。
1q84 はざま世代
前回のブログでご挨拶をさせて頂いた手前、
何もできていなかったので、とりあえず書いてみます。。。
2014も年末に近づき、外も寒くなってきました。。
この季節は非リアな僕にとってはとかく生きづらい時期でもあります、、、
思えば1984に生まれたのですが、いろいろありました。
あんまり幼稚園とか小学校低学年の記憶はないのですが、よくドラゴンボールを見たり、スーパーファミコンをやったりしてました。
そんな中、学校では小3か小4の頃くらいに学校の授業で「ゆとり」という時間ができました。また登校も週6だったのですが、いつのまにか隔週で土曜が休みになり、その後、完全週休2日制に変わりました。
当時詰め込み型教育が原因で、様々な場面でまさしく 「ゆとり」を失った児童、学生が自殺などによって自らの命を絶ってしまうという事件が社会問題となり、教育の現場が大きく揺らいでいたのを幼ながらに記憶しています。
それから間もなく阪神大震災、地下鉄サリン事件等、国家を揺るがす新たな大事件が次々と起こり、教育だけでなく、日本全体の価値観自体が大きな分岐点にあったのではないかと思います。
そして95年にはwindows95が発売され、その購入の為に家電量販店には長蛇の列ができ、それを買ってものすごく喜ぶPCオタクのような人がテレビで何度も映ってて、情報化社会というかネット時代が新たにやって来たというイメージが漠然とありました。。
「詰め込み」から「ゆとり」へ
「絶望」から「復興」へ
「産業社会」から「情報化社会」へ
僕は小学校を卒業するまでに、教育、日本の価値観、社会の面で大きな過渡期を経験したのでした。